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寺院一覧ー お気に入りの寺院は見つかりましたか? ー
- 天台宗 青蓮院門跡
- 青蓮院門跡は、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つとして古くより知られ、現在は天台宗の京都五箇室門跡の一つに数えられています。
青蓮院門跡は、古くより皇室と関わり深く格式の高い門跡寺院とされています。
日本天台宗の祖 最澄(伝教大師)が比叡山延暦寺を開くにあてって、山頂
に僧侶の住坊を幾つも作りました。その一つの「青蓮坊」が青蓮院の起源であるといわれています。伝教大師から円仁(慈覚大師)、安恵(あんね)、相応等、延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、比叡山東塔の主流を
なす坊でした。
平安時代末期に青蓮坊の第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇
が御帰依になって第七王子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して、青蓮院と改称せしめられたのが門跡寺院としての青蓮院の始まりです。行玄が第一世のご門主です。
- 真言宗 東光院(千葉)「平山お願い薬師」
- 真言宗 豊山派のお寺です。
東光院は願い事がかなうお寺として多くの人々から「お薬師ま」、「平山お願い薬師さま」と親しまれています。
正式名称は、鈴得山大金剛寺 東光院
略縁起: 寺伝によると古くは広徳寺といい、平将門の叔父、千葉氏の祖である平良文の孫、平忠常(975-1031年)が人々の病気平癒を願って建立したと伝えられています。安土桃山時代に正親町天皇(第106代天皇1557-1586在位)の皇子、誠仁親王(陽光太上天皇)の第一皇子、後陽成天皇(第107代天皇1586-1611在位)ご病気の際、当山の祈願によって平癒されたといわれ、その時弘法大師が唐より持ち帰ったという「五部の鈴」を賜って、鈴得山大金剛寺東照院の勅号くだされたと伝えられています。1707年、社寺奉行の命によって東照大権現と重なる東照院から東光院に改めさせられたといわれています。また数回の火災のため記録および寺宝を多く焼失したと伝えられています。
- 曹洞宗 禅定寺(京都)
- お茶畑の幾筋もの畝を縫って、宇治田原町を北へ走ると、小高い丘に禅定寺が見えてきます。
寺は、東大寺の平崇上人が藤原兼家の帰依を得て991年(正暦2年)から
5年の歳月をかけ建立しました。その後も藤原道長ら摂関家の保護を受け栄え、平安時代末期には平等院の末寺となりました。
古代・中世を通じて寺勢を誇りましたが、戦国時代以降に衰退。江戸時代に入り、1680年(延宝8年)加賀大乗寺の月舟宗胡が入寺、加賀藩家老本多政長などの援助により、曹洞禅の道場として再興されました。
西側の山門を入ると、正面に本堂、右に観音堂、十八善神堂、地蔵堂、そして左に庫裡が建っています。
収蔵庫には平安時代の仏像が多数あります。
木造十一面観音菩薩立像(国重文)、木造日光・月光菩薩立像、木造四天王立像、木造文殊菩薩騎獅像、木造地蔵菩薩半跏像(いずれも国重文・平安時代)。書跡に禅定寺田畠注文・流記帳、禅定寺文書125通(いずれも国重文)
など多数あります。
- 曹洞宗 守護山 眞珠院(静岡)
- 伊豆の名刺「真珠院」は文明二年(一四七○)、守護代一翁宗滴大禅定門を開基として、大仁町田京の蔵春院三世実山永秀禅師を講して曹洞宗開山となします。
忽ち七堂伽藍完備して禅苑の風格を備え、修行道場として幾多の名僧を輩出しました。山門に掲げてある「柢樹林」の額にその面影を偲ぶことができます。(注 林とは修行道場という意味)しかるに、天明四年並に明治十八年と再度の火災に遇い、殿堂悉く灰燼に帰し、寺宝・古文書等の貴重な文化財を焼失したことは誠に残念なことです。(仏像並山門は火災を免れる)
昭和四年本営を再建するも、往時を偲ぶよもすがらもなく今日に至っております。従って開闢年代は詳らかではありませんが、現存の五輪塔に正安四年(一三〇二)定仙大和尚のために建立とあり、それ以前の創草と思われます。一説には沼津市の浮島地方を領した、頼朝の異母弟今若丸全成の開創とも伝えられています。同時代の伊東八重姫入水の地としても知られていますので関係なきにしもあらずと思います。
- 曹洞宗 三島山 法華寺(静岡)
- 宗旨・曹洞宗 寺号が法華寺であるのになぜ曹洞宗かといいますと、白鳳の昔、この地に大興寺という大寺がありました。この寺は法相宗で、渡来僧智鳳法師を開祖として、五重の塔を二基備えたいわゆる薬師寺式の七堂伽藍が、現在地から、三嶋大社の前あたりまでの問に立ち並んでいました。
ところが、その後別の所にあった国分尼寺が焼失して再建できないので、この寺を代用国分尼寺と定めました。尼寺は別名を法華滅罪の寺ともいうところから、寺号が改められて法華寺と呼ぶようになりました。歴史書には金光明寺法華寺とたいへん長い名が記されています。国分寺系は奈良の東大寺を本山とする華厳宗であり、尼寺は同じく奈良の法華寺を本山とする、法華経の功徳によって女人の五障等を滅して現在および末来の二世の安楽を得せしむる目的で建てられたものです。そのため今もって本尊は尼寺にふさわしい阿弥陀如来様でございます。
その後、弘法大師が伊豆の修禅寺を開かれるに及んで、一帯の各寺々が真言宗に改宗されました。当山もその一つで、現在、東海八十八箇所第七十六番の霊場になっています。御詠歌は「まことにも しんぶつそうを開くれば 真言加持の不思議なりけり」とうたわれています。また、この寺は観音霊場にもなっています。これは隣地に在った竹林寺が廃寺になるに及んで当寺に移されたもので、たいへん古い観音像と共に横道二番の札所になっています。御詠歌は元の竹林寺にふさわしく「もとよりも竹の林の寺なれば 直ぐなる道を頼む末の世」とあります。
ところで、また宗旨にもどりますが、伊豆の修禅寺が真言宗から曹洞宗に改められその九代目の僧逸叟栄俊禅師に依って当山も曹洞宗となり現在に到っています。
また、この寺はもと三嶋明神の別当を勤めた時代がありました。戦前までは当山住持が神殿に登り、除夜の鐘が終るとその初座に心経を読誦して天下泰平を祈祷したものでした。今も、寺内に三島明神大山祇命像を奉安しております。
なお、墓地内に大きな地蔵尊がありますが、これは、源頼朝公が、旗挙げの成功を祈念して、心経を写経して奉納した時の経塚で、前庭の松の木とその下の腰掛け石もみな公のゆかりのものであります。
かくして、大興寺から始まり、一三○○年の歳月の中で幾多の変遷を経ながら現在まで法燈を続けています。
- 曹洞宗 増田山 満福寺(秋田県)
- 満福寺縁起によると、草創期に外護した小笠原氏が増田築城にあたり、城地近傍の清光院跡に造寺したことによるとしている。小笠原義冬は城館の無事長久を願い、貞治4年(1365年)大槃若経600巻を写経奉納するが、この現存する経文と当寺開山像の墨書「東谷山」により、その経緯の大凡が知らされる。そして、天台宗より曹洞宗に替わるが、その上限の板碑の応安4年碑1371年にまで確かめられる。
しかし、篤信の増田城主・小笠原氏は南北朝以来の政変と奥州争乱の最中で、遂には遠く仙北郡楢岡城に北走する。代わって増田入城の土肥氏(次郎高平)も外護心に篤く、一ノ関から亀道文賀和尚を勧精し、中興に預かるが、亀道文賀和尚は願成寺、開山の師、梅栄元香和尚を開祖に自らは二祖となる。ここに応永19年(1412年)である。
- 臨済宗 円覚寺派本山 円覚寺
- 古都 鎌倉にある円覚寺は、臨済宗の本山。
山号は瑞鹿山(ずいろくさん)、瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)が正式名称。
鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。
1282年(弘安5年)、鎌倉時代後半北条時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建されました。時宗公は禅を弘めたいという願いと蒙古襲来による殉死者を(敵味方区別なく、冤親平等に)弔うために円覚寺建立を発願されました。
円覚寺の名前の由来は建立の際、大乗経典の「円覚経」が出土したことから、また、瑞鹿山という山号の由来は開山国師(無学祖元禅師)が仏殿開堂落慶の折、法話を聞こうとして白鹿があつまったという奇瑞から瑞鹿山(めでたい鹿のおやま)とつけられたといわれます。
円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府の篤い帰依を受け、寺領の寄進などにより経済的基盤を整え、鎌倉時代末期には伽藍が整備されました。室町から江戸時代幾たびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸末期(天明年間)に大用国師(誠拙周樗)が僧堂・山門等の伽藍を復興され、修行者に対し峻厳をもって接しられ、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築かれました。
静寂な今日の伽藍は創建以来の七堂伽藍の形式が伝わっており、山門、仏殿、方丈と一直線に並び、(法堂はありませんが)その両脇に右側、浴室、東司跡、左側、禅堂(選佛場)があります。
(てら旅美人事務局より)
北鎌倉で電車をおりると、円覚寺さんまではすぐ。
日本を代表する寺院のひとつであり、一度は訪れた方もおおいことでしょう。
ただ、ここが臨済宗の大本山で修行道場でもあるということを知る人はどれほどいるでしょうか?
歴史を知り、文化を知り 訪ねるとまた違った視点でお寺の魅力にふれることができます。
総門をくぐり一歩境内に入ると、空気が変わります。
凛とした空気のなか、見事な配置の七堂伽藍をゆっくりとまわることをおすすめします。
長い歴史のなか、多くの修行僧や迷える人々を見続けてきた重みが、心に安らぎを広げてくれます。
四季の花々や木々たちが、それぞれの顔をみせて出迎えてくれる。
何度 行ってもあきることのない空間。
さまざまな行事もおこなっています。
ぜひこれらの行事にもご参加してみてください。
- 天台宗 観福寺(知多四国霊場82番)
- 知多四国八十八ヶ所霊場82番札所
ご詠歌 「菩提心 起りて木田の 観福寺
二世の安楽 この外になし 」
知多西国三十三霊場21番札所
702年に行基により開山
本尊は十一面観音菩薩(県文指定)
ご本尊は秘仏で宮殿内に安置。17年ごとにご開帳される。
本堂内宮殿
宝治2年(1248年)造営の厨子。
造営年次が明らかな鎌倉時代の基準作として貴重であり「建造物」として
国指定の重要文化財に指定。
その他にも「三千仏図」「両界曼荼羅」「涅槃図」「星曼荼羅図」「毘沙門天像」
「不動明王像」「釈迦三尊像」など貴重な仏教美術を所蔵している。
門前の「紅白椿」の木は知多四国八十八ヶ所霊場開山の亮山手植えと云われている。
本堂横には天然記念物の「つぶらしい」があり市文指定にもなっている。
- 天台宗 延命寺 (知多四国霊場4番)
- 知多四国八十八ヶ所霊場4番札所
ご詠歌「心して 詣れその名も 延命寺
地蔵の利益 疑ひもなし」
知多百観音7番札所
鎌倉時代に盛佑により創建
本尊は延命地蔵菩薩
山内には貴重な仏教関係の掛軸や経典などがあります。
代表的なものとして、中国宋から元の時代にかけての作とされる
「刺繍普賢菩薩像」の掛軸(愛知県文化財)や
南北朝から室町時代に写経された「紙本墨書大般若経」、
鎌倉時代の「絹本両界曼荼羅/金剛界と胎蔵界」(大府市文化財)などあります。
- 曹洞宗 普門寺 (知多四国霊場3番)
- 知多四国八十八ヶ所霊場3番札所
尾張三十三観音霊場5番札所
ご詠歌 「 ありがたや 寺の名さえも 普門ぼん
唱えて暮らせ 朝な夕なに 」
曹洞宗の寺で山号は海雲山と称する。
ご本尊は十一面観世音菩薩
ご本尊は秘仏で、大府市の文化財に指定されている。
17年に1回のご開帳。
後桜町天皇の明和七年のご開帳時に、版木に作成した当山由来記によると
「天武天皇時、白鳳元年如月の頃、夜毎に海上の波間に電光の如く物凄い光を発し車輪の如く鳴り響く怪物あり。
遠近の里人恐れおののき海辺の往来全く絶えるに至る。
彼の光る物白雲の虹を懸けたるが如くなりて、当山の地に連なる。
時に村内に慈悲心深き老翁あり、一夜霊夢中大悲の示現を蒙る、依って彼の光る物の源を尋ねしに、彼の波間に光を発せし怪物と思いしもの、次第に磯へ流れ寄りて『慈眼視衆生福聚海無量』の声あり。
翁驚き敬首し合掌せしに、彼の光る物直ちに翁の背に飛び移りて『速に堂宇を建立し安置して済度利生せしめよとの仏勅あり』翁急ぎ一宇を建立して懇ろに此の大悲の尊像を祀る。
之当山の起源なり、依って当山を海雲山と号し、普門寺と称する由以なり。
爾来、年を重ね日を加ふるに従い、霊験益々著しく心願の一として成就せざるなき程の霊場となる。
- 信州善光寺 薬王院
- 長野にある善光寺は、一度は訪問したいといわれているお寺であり、年間を通して多くの老若男女が参拝に訪れています。
その昔、諸国からの参詣者は、本堂のみ仏の下で仮リ寝(おこもリ)の夢を結んだものですが、しだいに参詣客がふえて、さしも広い本堂にも泊まれなくなってしまいました。
そこで僧たちが自分の住いである院坊に信者の方をお連れしてお世話をしました。これが善光寺独特の宿坊制度に発展していきました。
薬王院は善光寺三十九院坊の中でも、千年の昔、この地に善光寺が建立されたときに、阿弥陀堂として最初に建てられたという由緒ある伝統の宿坊です。
住職以下、一坊すべてのものが、み仏にお仕えする心で、おいでの方をお世話申しあげております。
(てら旅事務局より)
長野駅からバスで10分あまり、バスを降り 仁王門を抜けるとお蕎麦屋やお土産を売る仲見世通りになる。
山門の手前を左に折れ、突き当りの左側に、薬王院さんはあります。
善光寺さんの駐車場にも近く 静かなのですが便利な場所です。
善光寺は、無宗派でありどなたでもうけいれる懐深いお寺で、多くの宿坊があります。
宿坊といっても、お泊りのお客様だけをご案内しているいのではなく、善光寺参拝の方々の案内もいたしますし、ここで精進料理の昼食をとることもできます。
善光寺参りの真髄は、毎朝行われる「お朝事」に参拝することです。
その「お朝事」に、住職はじめ宿坊専属の公認案内人がご案内いたします。
昼間参拝するのとはまたちがった経験をできるのも宿坊にとまる良さではないでしょうか?
昼間参拝の方々には、皆さまのご都合に合わせ、随時、お戒壇めぐりやお数珠頂戴はじめ境内の伽藍、史跡などのご案内もいたします(有料)。
お泊りまではできないが、善光寺参拝とともに精進料理を味わいたいとお考えのかたは、こちらで精進料理の昼食をとることもできます。
薬王院のご住職は、山菜やきのこなど山の幸にも詳しく、まぼろしの山菜や貴重なきのこを自ら取りにいかれて提供してくれたりもします。
詳しくは、「てら旅美人」をみてと伝えてお問い合わせください。
- 鷲峰山 高台寺
- 臨済宗建仁寺派の寺で、東山霊山の山麓、八坂法観寺の東北にあります。正しくは高台寿聖禅寺(こうだいじゅしょうぜんじ)といい、「蒔絵の寺」として広く知られています。
豊臣秀吉の妻・北政所(ねね、高台院)が秀吉の菩提を弔うため、徳川家康の援助を受けて1606年(慶長11年)に創建しました。1624年(寛永元年)建仁寺の三江和尚を開山として迎えられ、高台寺と号しました。
創建当時、寺観は壮麗を極めたが、度重なる火災に遭い、現在は、開山堂、
霊屋、表門、観月台、茶室の傘(かさ)亭と時雨亭が当時のまま残っており、いずれも重要文化財に指定されています。
北政所の墓所である霊屋には、秀吉夫婦の木像が安置され、須弥壇(しゅみだん)及び厨子に施された高台寺蒔絵として名高い華麗な蒔絵装飾は、室町時代の漆工芸美術の粋が尽くされています。
開山堂の臥龍池と西の堰月池(えんげつち)を中心とする池泉回遊式の庭園は、小堀遠州の作と伝えられ、国の史跡・名勝に指定されています。
寺宝として、高台院像(重要文化財)、豊臣秀吉像をはじめ、蒔絵の調度品や絵画、その他の美術工芸品など、数多くの文化財を蔵し、その一部は、ねねの道をはさんだ「高台寺掌美術館」で公開されています。
- 曹洞宗 清涼山曹源寺 (知多四国霊場1番)
- 曹洞宗の寺院。
江戸時代に再建されたという趣のある山門にお寺の風格がただよう。
曹源寺は、鎌倉時代(700年程前)天台宗として開創され、後柏原帝の御代永正2年(1505)に曹洞宗の寺院として改宗されました。
永禄3年(1560)5月19日 有名な“桶狭間の戦い”が起こり今川義元
公は戦死、多数の死傷者が戦場一帯に放置されていたのを、二世快翁龍喜和尚が、村人を指揮して戦傷者を収容し戦死者は各所に葬り代表的な場所として
戦人塚を選定し引導焼香しました。今川義元公をはじめ武将の霊牌を位牌堂に祀り、戦人塚と共に歴代の住職が回向供養しています。
承応3年(1654)3月3日火災に因り諸堂全部灰燼に帰し、わずかに山門の扉二枚のみ残ったと伝えられています。
当時の伽藍は現在地より南東1キロぐらいのところ元屋敷にあり、その地は境川、正戸川の氾濫に悩まされており高台である現在地を整地して伽藍を整備しました。
山門は、享保2年(1717)寄進により建立されました。現在 豊明市の文化財として登録されています。
毎月29日は縁日で、境内に露店が並び、
- 天台宗 飯田山 常楽寺(熊本)
- 飯田山大聖院常楽寺は、熊本空港の近く飯田山(431メートル)の八合目にある天台宗の寺院です。
平安時代の末期に創建されたといわれる歴史ある寺院。
お寺の由緒によると。
日羅開基といわれています。日羅公は、芦北郡百済来村(現八代市)の出自で。父は芦北の国造、阿利斯登(百済系)。
百済の高宮(将軍)を務めていたが、西暦583年7月敏達天皇の再三の招請を受け帰国し、天皇より日本の防衛について問われ、平和的進言を述べるが従者に同年12月30日暗殺されてしまいます享年80余才。
その後、日羅公の献策が日本の国是となり公を象徴として祭祀したものと考えられる。
鎌倉期には、俊じょう(御船町甘木)が在籍します。
俊じょうは1199年、宋(中国)に渡り13年間修学し、帰国後、天皇家菩提寺「泉涌寺」を再興します。
江戸期には、藩主細川公の勅願寺として、代々参詣がなされ国家安泰の祈願が行われており、第九代藩主斉樹公(享年30才)の直筆「福寿海」の扁額が残されています。
かなりの歴史があり、かつては最盛期300余名の学僧と数多くの坊があったといあわれており、北の坊、ザーレン坊、フーレンジ、塔ノ尾、寺屋敷等の地名があり埋もれた史跡が山中にたくさん残されているようです。
石段前には「天空の集落跡」があり、麓の門前、土山区は熊本城「築上瓦」の生産拠点でもあったそうです。
これから、この歴史あるお寺では「修行体験」等の企画も積極的におこなっていくとのことですので、楽しみな寺院です。
平成23年5月
訪ねてみました。
空港から車で20分ばかり国道を走ると、「常楽寺」入口の看板が
要所要所に 小さな看板があります。
しかしかなり狭い道です。
運転は慎重に。
途中 何箇所か迷う場所がありますが、自動車→と看板がでていますのでわかると思います。
かなりあがった頃、大きめな看板で「常楽寺」とでているところを右折
突然開けた場所にでます。
昭和30年代までは、ここに20数軒の家々があったとか
広い駐車場があり、その横にあるのが「信徒会館」
お食事や宿泊はここでするそうです。
境内は 苔むして新緑がまぶしい。
ここがかつて多くの人でにぎわった歴史ある寺院なのは、あちこちにある石柱をみればわかります。
「乱れ積み」の石段は、道路から門まで続いておりますが、今にも崩れそうで怖い感じがします。
歩くには注意が必要です。
高い場所にあるために、眺望はとても素敵でした。
道路がせまいために乗用車程度でしか進入は不可能です。
事前に道路状況等 問い合わせてからいかれることをお勧めいたします。
- 曹洞宗 一乗寺(静岡県)
- 山号 庵原山
本尊 南無釈迦牟尼佛
開創 永禄3年(1560)
静岡梅花観音霊場第49番札所
室町時代以前、この地の領主庵原氏の創建である禅念寺(真言宗)を源流に、禅林寺(臨済宗)を経て、今川氏の軍師大原崇孚和尚が名を一乗寺と改め、その後永禄3年朝比奈公が曹洞宗に改め、寺領も14石の朱印状が下された。釈迦牟尼如来を御本尊と仰ぎ、七堂伽藍の形態を今に留めている。寛文10年黄檗版一切経を納めた六角廻輪の経蔵と寺宝の朝比奈公使用の長刀は、共に静岡市の文化財に指定されている。
- 曹洞宗 静居寺(静岡県)
- 山号 青原山
本尊 釈迦牟尼仏
開創 永正七年(1510)
静岡梅花観音霊場第94番札所
静居寺は、16世紀始めに賢仲繁哲を開山として建立されました。境内にある開山堂・禅堂・惣門・庫裏・本堂・山門・経蔵とその中にある輪蔵は、いずれも江戸時代の建物です。
惣門は、17世紀後半の建造物と推定され、京都から移建されたと伝えられています。上部は礎版盤の上に立つ四本の粽付円柱で支えられ、正面と背面の妻入部分に見事な唐破風があります、向唐門といい、静岡県内の寺院では極めてめずらしいものです。
- 曹洞宗 天徳寺(静岡県)
- 山号 冨洞山
本尊 釈迦牟尼仏
開創 南北朝時代末
南北朝時代末(1390)に豊後(大分県)の国東半島妙徳山泉福寺の僧、大通融士が開いた寺であり、駿河、遠江における曹洞宗最初の寺院と言われている。当初の天徳寺は現在地から北方四キロの山中あり、江戸時代の始め寛永年間、島田代官長谷川藤兵衛の援助により現在地に移転し、寺領として七石の朱印状が将軍から下された。江戸時代(嘉永四年)山火事に遭い本堂等焼失、ご本尊は近住の新蔵老人に運び出され難をまぬがれた、又、難をまぬがれた山門(和様切妻破風四脚門)は昭和31年県指定文化財に登録された。
- 瑞龍山 南禅寺(京都市)
- 南禅寺は、臨済宗南禅寺派の大本山です。本尊は釈迦如来、開基は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門禅師(大明国師)。日本最初の勅願禅師です。
京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式ある本山です。
南禅寺は今から710年あまり昔の1291年(正応4年)、亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創されました。
亀山法皇は1249年(建長元年)、後嵯峨上皇の皇子として誕生され、10歳にして皇位に就かれました(第90代亀山天皇)。しかしご在位の頃より東アジアの情勢が緊迫し、上皇になられてからは蒙古襲来という国難に立ち向かわれました。
この頃、上皇は父である後嵯峨天皇が帰依されていた圓爾辮圓(えんにべんねん)禅師(無関禅師の師・聖一国師)に授戒・問法し、不動の心を持って危機に対処されたのでした。
国難去った1289年(正応2年)、上皇は離宮禅林寺殿で落飾(出家)され、法皇になれれました。
法皇は禅師の徳をたたえて深く帰依され、正応4年離宮を禅寺とされました。
法皇と無関普門禅師の出会いはもっと早い時期にあったとも考えられています。開山にむかえられた無関禅師は、その年の12月に遷化(死去)されていました。そこで翌正応5年、法皇は第2世として規庵祖圓禅師(南院国師)を選任されました。
禅寺といっても、離宮には伽藍として機能するものは一つもありませんでした。従ってその建立が規庵禅師に課せられたわけですが、入寺からおよそ15年の歳月を費やし、その完成をみるに至りました。
規庵禅師が創建開山と呼ばれる理由です。
伽藍のほぼ完成した1305年(嘉元3年)9月15日、亀山法皇は嵯峨の亀山殿で御歳57歳をもって崩御されました。御陵は亀山殿の跡地に建立された天龍寺境内にあります。(ホームページより)
勅使門、三門は重要文化財に、大方丈(清涼殿)小方丈は国宝に指定され、内部の襖絵の多くは重要文化財に指定されています。方丈前庭は小堀遠州作「虎の子渡し」といい、代表的な枯山水庭園として有名です。
- 真言宗豊山派 宝珠山宝乗院
- 宝珠山医王寺の塔頭「宝泉坊」として開かれ、腱暦2年(1212)に医王寺とともに現在の地に再建された歴史ある寺院。
知多四国霊場32番札所で、霊場開創当時には開山のひとりである武田安兵衛行者に宿を提供するなど協力をしている。
ご本尊は「十一面観世音菩薩」
別堂の「金比羅大権現」は、海上安全の守り神でもあり、地元の方々の厚い信仰を受けている。
(てら旅美人事務局から)
弘法大師空海が上陸した聖崎から程近くにある。
かつてこの地域には、七堂伽藍十二坊を擁する大寺院があったと思いながら訪問してみると、今でもかつての塔頭が隣接しており、遠いいにしえに想いをはせることができる。
今は、静かなたたずまいに心落ち着く場所でもある。
お寺参りの楽しさは、お寺での仏像との出会い、教えとの出会いもあるが、歴史に裏打ちされた独特の空気もあると私は思います。
ここには、おだやかな知多らしい空気が流れていた。
札所5ヶ寺が軒を接する当地では巡拝者の振る妙なる鈴の音が、「南無大師唱えて辿る同行の友の情けに疲れ忘るる」と鳴り響いています。とホームページで紹介されていたが、まさにそのとおりの雰囲気であった。
ご住職は、御詠歌の先生として有名なだけでなく、音楽を生かしたさまざまな先駆的な活動をされており、お話をしていてとても楽しい時間でした。
御詠歌の先生を目指す多くの若い僧侶がここを訪れるのも理解できる。
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