『百草道の記并(ならびに)高畠不動尊詣共』① 天保四年(1833)10月、74歳の村尾嘉陵(むらおかりょう)は、江戸郊外、多摩の日野にあった「松蓮寺」(現在の京王百草園)と「高幡不動」へ、珍しく泊りがけで出かけた。
百草村は、府中の西、玉川の一ノ宮の渡りを、向ひに越えて、一里半ばかり、そこに松蓮寺といへる寺あり。その山のながめ江戸の近郊に双(なら)ぶべきものなしと聞しかば、稲葉矩よし(いなばのりよし)と、うちうちはかりて、かしこにと、夜をこめて三番町の宅を出。時に天保四年十月それの日也けり。市ヶ谷のあたりにて、ほのかに、ねぐらを出る鴉(からす)の声を聞。
むら雲のたちのまぎれに鴉の一声すなり明がたの空
日野の百草村は、府中の西、多摩川にかかる一ノ宮の渡しを向かい側に渡って約6kmほどの所である。そこには「松蓮寺(しょうれんじ)」という寺がある。松蓮寺のある山の景色は、江戸近郊でも他に並ぶものがないほど、すばらしいという。そこで友人の稲葉のりよしと打合せをして見物に行くことになり、夜の明けないうちに三番町(東京都千代田区九段南2丁目)の自宅を出発した。

(松蓮寺 『江戸名所図会』)
市ヶ谷あたりで、起きだしたカラスが、一声鳴くのを聞いた。 今回の行程は長旅である。三番町から高幡不動尊まで片道約35km(九里)以上。途中で見物もするだろう。休憩もする。食事もとる。1泊とはいえ、往復で70km以上の徒歩の旅を踏破する、嘉陵のおそるべき健脚である。
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行程は、彼の記録によればつぎのようになっている。
三番町(千代田区九段南2丁目)→四谷大木戸(新宿区四谷四丁目)→内藤新宿(新宿区)→幡ヶ谷(渋谷区)→代田村(世田谷区代田)→深大寺(調布市)→調布→府中→六社明神(大国魂神社)→玉川(多摩川)一ノ宮の渡し・中川河原→松連寺(京王百草園)→高畠不動(高幡不動尊)
さて、嘉陵の記述は続く。 昨日の夕方から空もようが少しあやしくなってきたが、友人(同僚)の稲葉矩(のり)よしと約束した手前、「雨が降ってきたら旅をやめればいい」と出発した。四谷大木戸で落ち合う約束であった稲葉は、まだ夜が明けず、ほの暗い中、雨よけの笠をかぶって待つほどもなくやってきた。笠を脱ぎ「ただいま参上」というのがうれしい。内藤新宿(宿場)あたりを歩いていると、灯りをつけて営業している飯屋(お店)があった。「もし雨が降り出したら引き返せばよい」と、相談。まず朝ごはんを食べてから・・・と、食べているうちに、東の空もしらみ始め、横雲がたなびいている。ここの主人も「今日は降らないでしょうね」などというのをきくと、心強い。とりあえず、この店で酒を求め、ひさご(携帯用のひょうたんとっくり)に入れて、腰につるして店を出た。
ひたすら歩く、徒歩の旅では、「お天気」(天候)は旅のもっとも重要な要素であったはずだ。笠をかぶり、蓑(みの:ワラのレインコート)を羽織っても、足場が悪い。ひとたび雨が降れば、難儀な旅になるのが、江戸時代の常であったと思う。
さらに幡ヶ谷(渋谷区)あたりで夜が明けた。このあたりでは民家の庭の木々が紅葉していて美しい。朝日に浮かぶ色は鮮やかで、今回の旅はまだまだ遠くへ行かなければならないが、(そのあまりの美しさに)つい足をとめてみたくなる心地がする。
ふりすてゝ行くもやられずわりなさの袖引とむる木々の紅葉
ふりすてゝ行くとはすれど紅葉の色に引るゝ袖のわりなさ
はかりしれない紅葉のすばらしさに、思わず「袖を引かれる」というような意味だろう。少しばかり大袈裟だが、この時期は旧暦の10月、現在の11月半ばといったところ。
代田村を過ぎて、松のはやしを南に見て、民家の前を過れば、はるかに鐘の音するを、かどに立るをふな(女?)に問ば、目ぐろ村の祐天寺の五つ(午前八時)を告る鐘なりといふ。朝けは東風也しも、南に吹かはりしにや、この鐘聞ゆれば、いよいよ晴る、聞くもたのもし。
末はるゝ松原ごしに聞ゆ也遠山寺のかねもほのかに(やがては晴れる 松原越しに遠くの寺の鐘がほのかに聞こえてくる)
代田村(世田谷代田)を通過する頃、遠くで鐘の音が聞こえた。道の角に立っていた女の人にきくと、目黒の祐天寺の「五つ(午前8時)」を告げる鐘だそうだ。朝方は東風(こちではなく、ひがし風)であったが、いまは南風にかわった。この鐘をきくと、いよいよ晴れるものと確信でき、元気づけられる。旅は続く。
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