江戸時代の寺社めぐり旅

伊勢詣でをはじめ、大山や富士山への信仰登山、各種の講などの団体旅行をはじめ、江戸時代には、庶民も江戸市中や郊外のお寺や神社に参詣・参拝を目的に「旅」をしたといわれています。

 そこで当時、書かれた旅日記や道中日記をひも解きながら、実際に歩いてみました。それにしても電車や車のない時代、ほとんどが歩く旅でした。1日に10里、約40㎞も平気で歩いていたようです。もちろん現代の旅は、電車やバス、マイカーも使えます。このあたりは、疲れないように、でもできるだけ「歩く」ことを念頭に、江戸時代の旅をたどってみました。

村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く №12

『府中道の記』その⑤
 

  御茶屋街道を進み、嘉陵(かりょう)一行は多摩川の河原に到着。流れが浅く歩いて渡れそうな場所(浅瀬)が、たくさんある。水は少ない。


さて、地元では、向う岸の山を、一の山、二の山、高い山を大丸山などと呼ぶ。土地の人は「向う山」といい、物好きな人は「向うが岡(丘)」などとも呼ぶ。万葉集の人麿や平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した歌僧の顕昭(けんしょう)も多摩川の風景を見て、歌を詠んだようだ。(略)
 
 さて、鎌倉街道の「小山田の関」は、いまなら府中市側から関戸橋を渡った場所にあったようだ。東京都多摩市になるが、残念ながら現在は、何にも形跡がない。

そして西に行くと「一ノ宮村」があり、地名の元になった「一之宮・小野神社」がある。少し足を伸ばして行ってみたが、境内は歴史を感じさせるどっしりした神社だ。京王線の「聖跡桜が丘駅」も近い。


☆小野神社(東京都多摩市一ノ宮1-18-8、京王線「聖蹟桜ヶ丘駅」徒歩10分) 江戸時代までは、武蔵国の一宮であった。多摩川の右岸にある。なぜか明治以降は、大宮氷川神社が一宮といわれている。

 

 さて一行は、川原で風景を楽しむ。「屏風岩」と呼ばれる岩や対岸の山に残る雪、夕焼けに赤く染まる山々など、絵にも描けないくらい美しい。それぞれが川原の石を三つ、五つと拾っておみやげにする。ここより川下には、仮の橋が架かっている。毎年10月の末頃から冷たい水の浅瀬を渡るのも大変なため、架橋されたものである。


 多摩川は江戸時代と現在とは、流れが違う。たびたびの氾濫や治水工事で、流れがかわったそうだ。昔は多摩川もかなり府中市内に近かったようだ。

さて、嘉陵は、水の流れを見て、春になると水かさを増す水辺で愛を語らう男女のやりとりを表現した「溱水と洧水(しんすいといすい)」の故事(『詩経』国風:鄭風篇)を思い出し、おもむき深いと記す。

 「多摩川の夕景」は、江戸時代にも有名で、広重らも絵のモチーフとして多数、描いている。夕焼けに染まる川面での鮎(あゆ)猟の様子などは、美しい。

名所雪月花 たま川秋の月 あゆ猟 

 (広重 名所雪月花 たま川秋の月 あゆ猟)


とかくする程に、日もやゝにかたぶきぬれば、もとの途(みち)をもどりて、一ノ

鳥居のかたに行き、左右みな、けやき、榎の並木五丁斗(ばか)り。(略)


左右の馬場は、神祖(家康)寄附ましますと云ふ。埒(らち:柵)はなし。この一の鳥居を北にゆけば、小野の御牧(みまき:牧場)、恋ヶ窪(国分寺市)など云所に出る云ふ、往古の奥州道也とぞ。


■川原で遊ぶうちに日が暮れかけてきたので、来た道を戻って、甲州街道を渡り、大国魂神社の参道を「一の鳥居」付近まで行く。左右は、けやきや榎の並木で、550mばかり続いている。


■参道の左右には徳川家康が、作らせた馬場がある。柵はなく、(土手のように)土が盛ってある。北に行くと「小野の牧場」や「恋ヶ窪」(地名)に出るという。昔の奥州道である。

 

 大国魂神社の鳥居は、「二の鳥居」が残っている。江戸時代、「一の鳥居」は、現在の東京都立農業高校あたりにあったという。そして、「旧一の鳥居」から、二の鳥居まで続くけやき並木が、府中のシンボルにもなっている。
「源義家(八幡太郎義家)」が奥州平定後に祈願の褒章として、けやき1,000本を植えたとさる『馬場大門けやき並木』である。(国の天然記念物、1062年源頼義・義家父子が、けやきを寄進したと伝わる)


 しかし、源頼義・義家が、けやきなど並木を寄進した話は、関東・南東北の各地の神社に、20件以上も伝説が残されているそうだ。いくら奥州征伐に成功したからといって、それほどたくさんの神社に戦勝祈願をしてお礼をしたとは、とても思えない。


 また、1062年に植えたけやきは、生きていれば樹齢は948年以上になる。最近の科学的測定によれば、可能性として樹齢は650年以上900年近いものもあったそうだから、ひょっとすると「八幡太郎けやき」伝説には真実味がある。


大門の並木の中程より、人家のうら道を過ぎて、万右衛門が亭にかへり着ぬ。その道すがら北の方間近く、昔の国分尼寺の跡也と云がみゆ。今は称名寺と云ふ。近比徳阿弥陀仏の御石碑掘出し寺也と云ふ。程近けれど、日も既に申(さる)の刻(午後4時)ばかりになれば、ゆきて見ずなりぬ。

■馬場大門の並木の中程から、人家の裏道を行き、(旅籠・四人部屋)万右衛門へ帰り着いた。道すがら、昔の国分尼寺跡という「称名寺」があったが、時間も遅いので寄らなかった。


これは、村尾嘉陵の勘違いで、「武蔵国分尼寺跡」は、もう少し北の東京都国分寺市西元町4-3で発掘されている。称名寺は、国司として中央から派遣された源経基(つねすけ)の住居跡とされている。この経基こそ、清和源氏の祖先とされる人物で、いってみれば、徳川家の祖先でもある。実はこの称名寺境内の竹林から、江戸時代の享和2年(1802)、墓碑が掘り出された。この墓碑銘には、徳川将軍家の先祖を意味する「世良田徳阿弥陀親氏(ちかうじ)、応永一四年」の記載があった。


 徳川家の正史『徳川実紀』では、時宗の遊行僧であった世良田徳阿弥親氏は、三河の称名寺に落ち着き、三河賀茂郡松平郷の松平家の養子となり、初代徳川家を起こしたとされている。したがって、府中で徳川家の先祖の墓(墓碑)が発見されたことになれば、徳川将軍家の歴史がくつがえされてしまう。その後、府中の称名寺の、この墓碑の話は、闇に葬られ、「先祖づくり」あるいは「権威づけ」として、歴史の1ページから抹殺されている。当時、清水徳川家の武士であった嘉陵にとっては、かなりの関心事であったには違いないが、ある意味、歴史のタブーであったため、深くはふれていない。


☆称名寺(諸法山相承院 称名寺、時宗:東京都府中市宮西町1-9-1)
 全国を歩いた遊行僧・一遍で知られる「時宗」の古刹である。境内には、一遍上人の像があり、人間味あるお姿だ。大学の日本美術史の授業で『一遍上人絵伝』を学んだときの印象がよみがえってきた。一遍上人は、あらゆる階層の人々に、世の無常を説き、仏教を布教して歩いた。ある時は街角で庶民に、ある時は豪華な公家の住む宮殿で、人々に教えを説いた。この称名寺、現在は、「子育て地蔵」が近隣の人々の信仰を集め、多くの親子ずれが訪れている。


 さて、村尾嘉陵一行は、四人部屋万右衛門で早めの夕食と酒をいただき、長い長い1日の帰路に着いた。酉(とり:午後6時)の刻に、(杉並区)高井戸を過ぎる頃、風もやみ、続いて(世田谷区)代田あたりで月が白く輝き、足元を照らし歩きやすかったようだ。そして戌(いぬ:午後8時)の刻を過ぎる頃、帰宅した。 実際には、往復で60km以上の長い日帰り旅となる。

2010.06.28 14:09
    
  
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